カテゴリー「・日本の街角 Hilights of Japan」の27件の記事

2017年10月28日 (土)

・壁ギャラリー(1)で飾っている、いわさきちひろ展で買ったポストカード

先に安曇野ちひろ美術館のショップで買った記念切手、童画ノスタルジーシリーズ「第2集」を紹介 しました。そのおり、過去のちひろ展に行き、ケッチや著書の「ちひろの絵のひみつ」を買ったことを書きましたが、それは平成6年高松市美術館で開催された「いわさきちひろ展」でした。ポストカードを10枚余り買い、同時に買ったポストカード用のアクリルフレームに入れ、壁に架けたり机の上において飾っていました。

ちひろさんは議員秘書をしていた松本善明氏と1950年に結婚後も東京で、新聞カット、雑誌や児童書の挿絵を描いて働いて生活を支えていました。そんな忙しい生活の中、1951年に長男武君が生まれますが、子育てしながら仕事を続けるのは大変でした。それを見かねた長野の両親の勧めで、猛君を両親に預けることになりました。お金がたまればちひろさんは9時間かけて長野まで行き、わが子を抱きしめてお乳をあげ、スケッチをする以上に息子の姿を心に焼き付けたそうです。1952年になりやっと、両親が練馬区に購入していた土地に家が建てられて猛君を引き取ることができ、我が子というモデルを得て、ちひろの描く子どもは格段に進歩していきました。隣には妹夫婦が住んでおり、その姪御さんは猛君のいい遊び相手で、二人とも彼女のよいモデルになったことでしょう。ここには「いわさきちひろ展」で買ったポストカードを紹介します。

 

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いわさきちひろ展

 買ったポストカードを、モデルの生育の順に並べてみました。

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2017年10月26日 (木)

・長野の安曇野ちひろ美術館で絵を見た後、いわさきちひろ原図の記念切手を買ってきました

私はいわさきちひろさんの描くやさしい絵が好きで、美術展があれば出かけてそのスケッチや著書の「ちひろの絵のひみつ」を買って愛読しています。ちひろさんは1918年に福井県に生まれ、東京育ちです。東京府立第六高等女学校卒業後、藤原行成流の書を学び、絵は岡田三郎助、中谷 泰、丸木 俊に師事されています。子どもを生涯のテーマとして描き、9300点余りの作品を残し、1987455歳で歿されています。10か月と1歳の赤ちゃんをモデルなしで描き分けられたといわれる確かなデッサン力と、日本の伝統的な水墨画にも通じるにじみやぼかしを用いた独自の水彩技法で、数多くの子どもを描き続けました。1977年にアトリエ兼住居跡にちひろ美術館・東京を開館。1997年両親の故郷である安曇野に安曇野ちひろ美術館を開館しています。

 

先にはやはりちひろさんの可愛い切手・「季節のおもいでシリーズ春」(第2集) と、童画のノスタルジーシリーズのほのぼのとした「第1集」記念切手 を紹介しています。今回は、先日京都から日帰りで往復700㎞を行く日帰りバス旅行で、安曇野ちひろ美術館に行った際に、ショップで見かけた童画ノスタルジーシリーズ「第2集」を買いましたので、それを紹介します。絵の説明には、日本郵便の解説を利用させてもらいました。今回は彼女の作品が多く載せられている「別冊太陽 いわさきちひろ」も気に入り、購入しました。

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安曇野ちひろ美術館

 

 

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2017年9月 6日 (水)

・長崎のハウステンボスのホテル庭園に植えられた多くのユリの花を見てきました

先にはハウステンボスのホテル内で飾られた、豪華なユリのアーチを見てきました。ホテル前の庭園にはこれまた見事なユリの鉢植えが、ぎっしりと並べられていました。地植えかと思ってよく見ると、半球形に形作られた花壇にポットを差し込む穴が開いており、その穴に鉢植えのユリが植えこまれていました。開花時期とそれぞれの茎の高さが同じで良くそろっており、花の位置が揃って半球状に並んで素敵なユリ花壇になっていました。日差しがきつく温度も高いためか,伸びすぎた個体があればすぐ適度の高さのユリ苗に交換されているようでした。

先にも少し書きましたが、ユリの花は日本特産の花です。東洋ではユリは食用や薬用として使用されてきており、わが国でもヤマユリ、コオニユリ、オニユリの3種がその鱗茎(ユリ根)を食用とするため栽培されています。苦みを除くためにあらかじめ軽く煮てから、雑煮、茶碗蒸しやガンモドキなどに用いられています。先に紹介したシーボルトは日本原産のユリの球根をヨーロッパに持ち帰りました ヨーロッパでは純白のユリの花は古くから聖母マリアの象徴とされ、教会花として用いられており、バチカン市国の国花にもなっています。そんなヨーロッパに持ち帰られたテッポウユリ(琉球列島原産)はマドンナリリーとも近い種類であり、復活祭に用いられるイースターリリーとして大流行しました。明治時代には絹と共にユリの球根が日本の重要な輸出品として、外貨を稼いだようです。テッポウユリは日本の南にある琉球列島、そして沖縄、奄美、永良部の島々が原産地です。

 

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 パレス・ハウステンボスへのアプローチ

 ハウステンボスの最北側に、パレス・ハウステンボスがあります。遊覧バスでホテルに向かいました。緑に囲まれたアプローチには、両側にユリの鉢植えが並べられています。

 

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2017年9月 1日 (金)

・長崎のハウステンボスでクルージングを楽しみ、ホテルヨーロッパでユリの花のイベントを見てきました

 

今回の長崎旅行では大浦天主堂 シーボルト記念館浦上天主堂26聖人記念碑を見た後、いよいよハウステンボスへ行く事にしました。長崎市内ではなく佐世保市にありますので、長崎からは久しぶりにJRの旅をのんびり楽しみました。以前来たときは空港からバスで来たのでしたが、JRハウステンンボス駅からは以前泊まったホテルオークラJRハウステンボスがすぐ近くに見え、少し歩いてウエルカムゲートに向かいました。

 

前回来たときは秋の気候の良い時で、園内のあちこちをある綺麗なお花畑を夕方まで散策しました。しかし今回は暑い時期でもあり、クルーザーやパークバスを利用して乗り物から園内を見て回り、気に入った建物や庭園でのお花の展示を見て周りました。

 

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オテルオークラJRハウステンボス

JRハウステンボス駅から、オテルオークラJRハウステンボスが間近に見渡せます。

 

 

 

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2017年8月23日 (水)

・長崎の西坂にある二十六聖人記念碑と記念館を訪れました

今回の23日の長崎旅行では欲張って大浦天主堂 シーボルト記念館浦上天主堂 26聖人記念碑とハウステンボスの5か所を見に行く計画を立てました。また先に長崎に行ったのは15年ぶりと書いていましたが記憶違いで、2008年にも一人で行っていましたので9年振りでした。それと今回の計画の予定外は、以前にはハウステンボスには園のホテル込みのフリーツアーで私たち夫婦だけで行ったので、場所が長崎市内と勘違いしていました。実際にはハウステンボスは佐世保市にあるので、長崎からはJRで1時間20分かかります。そこで、今回はハウステンボスには丸1日充てることにしました。

二十六聖人記念碑は長崎駅近くで、ホテルからも近い距離で、簡単に行けました。併設の記念館は日本二十六聖人の顕彰を目的として、カトリック教会によって設立された博物館です。長崎県史跡「西坂の丘」のある西坂公園に隣接しています。

1549年ザビエルが来日し、キリスト教の布教が始まります。しかしその後1587年に豊臣秀吉はバテレン追放令を出し、キリスト教の布教を禁止します。厳密には信仰を禁止したわけではなく、宣教師や信者が迫害されることはありませんでした。

 

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二十六聖人記念碑

記念碑「昇天のいのり」は1962年の列聖100周年を記念して、記念館に隣接する西坂公園内に建立されました。記念碑は花崗岩製で高さ5.5メートル、幅17メートルの台座に、舟越保武氏制作の二十六聖人を模したブロンズ像がはめ込まれています。

 

 

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2017年8月15日 (火)

・長崎の平和記念公園から浦上天主堂を再び訪れることができました

長崎では先に大浦天主堂を訪れたことを書きました、せっかく長崎まで来ましたので市電で松山駅まで行き、平和記念公園に向かいました。

平和記念公園ではいつものことながら多くの観光客や高校生などがたくさん訪れていました。中には小学生の一団が先生に引率されて入ってきて、どうするのかと思ってみていました。すると平和記念像の両側に千羽鶴の保管場所があるようで、代表が持ってきた千羽鶴を吊るしていました。平和記念公園からは浦上天主堂は良く見え、一休みした後天主堂に向かいました。

 浦上天主堂は、1945年(昭和20年)の長崎への原爆投下によって破壊されましたが、1959年(昭和34年)に再建されました。1962年(昭和37年)以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会です。

天主堂のすぐそばに長崎医大があります。長崎医科大学(現長崎大学医学部)永井助教授は原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭に重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を「長崎の鐘」に書いています。被爆時に大学や長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いています。永井博士はこの時妻を亡くし、また自身も救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留めました。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のことです。

 

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平和公園から見た浦上天主堂

長崎の町にキリシタンが伝えられた1567年ごろから、浦上にもキリシタンの布教が行われ、1584年、有馬晴信が沖田畷の戦の勝利の感謝のため、イエズス会の知行地として寄進したことによって、浦上は名実共にキリシタンの村になった歴史があります。

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2017年8月 8日 (火)

・長崎の出島と鳴滝で医学、博物学その他の知見を伝えたシーボルトの足跡を記念館で見る

長崎では江戸時代の鎖国の間も出島ではオランダと中国との交易はされており、世界に開かれた町でした。ヨーロッパの学問の進展はオランダを通して伝えられ、そこにはシーボルトの貢献は大きく、医学、博物学その他の最新の情報をもたらしました。

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトPhilipp Franz Balthasar von Siebold, 17961866)は、ドイツの医師であり博物学者でもありました。ドイツ語での発音は「ズィーボルト」ですが、日本では「シーボルト」として知られています。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられおり、これは貴族階級を意味します。

東洋学研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となります。滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認めて、1823年に27歳で来日し、長崎の出島のオランダ商館医となりました。出島外の鳴滝塾を開設して西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地から集まってきた多くの医者や学者、例えば高野長英などに講義しました。

 

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シーボルトと植物

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2017年7月30日 (日)

・長崎の大浦天主堂を15年振りに訪れ「日本之聖母像」と「信徒発見」レリーフを見てきました

15年振りに長崎を訪れる機会がありました。暑い時期でしたが、中々チャンスはないので思い切って家人と出かけました。今回の訪問予定は、大浦天主堂、シーボルト記念館、浦上天主堂、26聖人記念館とハウステンボスなどでした。久しぶりの伊丹空港ということで、京都からの行き方を調べると大分以前と変わっています。モノレールが伊丹空港まで行っていたのは知っていましたが、阪急電車の南茨木市駅で乗り換えるのが最も便利で、早く伊丹空港に着きました。1時間15分のフライトで長崎空港に着き、長崎空港からはリムジンバスで長崎市内に向かい、ホテルにチェックインした後、市電で大浦天主堂に向かいました。

大浦天主堂は、江戸時代末期の1865年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物です。正式名は日本二十六聖殉教者堂で、その名のとおり日本二十六聖人に捧げられた教会堂で、殉教地である長崎市西坂に向けて建てられています。大浦天主堂は二つの歴史的出来事と密接に関わっています。一つは、1597年日本で最初に殉教した日本二十六聖人たちに捧げられた教会です。もう一つは1865年におきた信徒発見です。大浦天主堂が1864年にたてられた翌年2月に、浦上の隠れキリシタン達が信仰告白をして名のりを挙げました。プティジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。

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大浦天主堂

市電の大浦天主堂下駅で下車して、石畳の坂を上っていくと間もなく大浦天主堂に着きました。天主堂の入り口には「日本之聖母」像が見え、その上には建設当時の神を表す「天主堂」の文字が見えます。天主堂右の建物は旧羅典神学校で、その右下の建物は

旧大司教館です。

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2016年11月 5日 (土)

・北海道の函館にある「天使の聖母トラピスチヌ修道院」は何か心惹かれる所です(2)

英国に住んでいた時滞在していたロンドン大学ワイカレッジは、ほかの大学と同様に教会に属するラテン語学校から発達してきています。だからワイチャーチの牧師も大学行事に参加していて、学生にいつも教会に来るよう話しかけていました。しかし若い学生のミサへの参加は、減ってきているようでした。時々日曜日のミサに参加しましたが、村人の多くは参加して一週間の行動を振り返っているようでした。私も日本ではまれにしかお寺や神社に行かず年一回だけ天竜寺の座禅に参加するぐらいで1週間の生活を振り返ることなく過ごしています。

前回聖母トラピスチヌ修道院の来歴、設備やお土産品などを紹介しました。この修道院は祈りと労働を主要な手段として、神と人々に奉仕する隠世共住修道会です。その厳しい毎日の修道生活を、修道女の生活から紹介します。

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トラピスチヌ修道院

修道院は木々と緑に囲まれ、公開部分は左の図のようで、白い線で示した内側です。

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2016年11月 1日 (火)

2016.11.01・北海道の函館にある「天使の聖母トラピスチヌ修道院」は何か心惹かれる所です

北海道には連絡船の時代から何度か旅行に訪れ、特に函館にはエキゾチックな雰囲気を残す函館ハリストス正教会、五稜郭などがあり、特にトラピスチヌ修道院には何度か訪れました。子供の頃に母に連れられ、巡回牧師が来られる日曜学校に行っており、讃美歌や聖書の話には何度か触れていました。そんなことから海外でもよく教会を訪れていまして、海外の修道院にも行ったことがあり、なんとなく修道院は気になるところでした。特に、幼友達のEさんが病魔に侵され、キリスト教に助けを求め、トラピスチヌに行きたいと言っていたことを思い出します。現在の進んだ医学でも、中々完全治癒のできない病気がり、精神的拠り所をどこに得られるかは大きな問題です。

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トラピスチヌ修道院

 右は聖母マリア像、左は読書をしている修道女。

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