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2024年1月 6日 (土)

・京都伏見の歴史を尋ねて(3)油掛通の油懸地蔵、西岸寺の芭蕉句碑と市電発祥の地などの歴史の跡(了)

 

先に、京都伏見の歴史を尋ねて(1)として御香宮境内の残る歴史の跡を、その(2)として御香宮境

内、大手筋商店街から寺田屋に残る歴史の跡を紹介しました。今回はその(3)として、かっては大

手筋商店より以前に栄えていた油掛通界隈の歴史跡を紹介します。油掛け通りの地名の由来は、西岸

寺にある油懸地蔵の由来に因っています。平安時代初期に乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮で本邦初

の荏胡麻種子から荏胡麻油が搾られたことから、「本邦製油発祥の地」の碑があります。油の用途は

当初はお燈明用として始まり、その後には髪油、食用油と多岐にわたり拡大してきました。当初この

油は油座として、離宮八幡宮の許可を得た油商人だけが取り扱えました。一般庶民の明かり用の油は

鰯を原料とした魚油で、菜種油は蠟燭よりもはるかに高価でした。菜種油の値段は1升(1.8 ℓ)が、

今の値段で8000円くらいであり、お米の3倍の、超高級品でした。油に待つわる出来事が西岸寺で

石地蔵に起こった出来事から、この通り名が油掛通と命名されて有名になりました。

江戸時代には髪油を売り歩く者が、婦女を相手に話し込みながら商ったことから、「仕事を怠けて無

駄話をすること、あるいは仕事の途中で時間をつぶして怠けること」を、「油を売る」という意味に

も使われるようになりました。

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西岸寺

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西岸寺説明

浄土宗の寺で、地蔵堂には俗に油懸地蔵と呼ばれる石仏の地蔵尊が安置されています。寺伝によれ

ば、昔、山崎の油商人が門前で転び、こぼした油の残りをこの地蔵尊に注いで供養して行商に出たと

ころ、商売が大いに栄えたと言われています。以後、この地蔵尊に油をかけて祈願すれば願いが叶う

として、人々の信仰を集めました。お地蔵さんは石仏さまで、お顔が美しく、なで肩、大きな胸あき

の彫法、錫の部分の大きく立派なことから、鎌倉時代の作と言われています。銘文が刻まれているよ

うですが、昔から油を掛けて祈願され、油が2㎤も厚く積もっていて、今では調べようがないと記さ

れています。

境内には、自然石に刻まれた芭蕉の句碑もあります。

 

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西岸寺・油懸地蔵の由来

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油掛地蔵尊

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奉納額

油掛地蔵尊の起こりは先にも書きましたが、昔、山崎の油商人がこの門前で転び、油桶を落とし油を

流してしまいました。大切な油を失って落胆しましたが、残った油を地蔵尊にかけて行商に出たとこ

ろ、大いに栄え店は繁昌しました。以来、油をかけて祈願すれば願望成就すると信仰され、油掛地蔵

尊と称されるようになりました。地蔵尊は石仏で高さ1.7m、幅80㎝の花崗岩の表面に、像高

1.27m(立像)を厚肉彫りしたもので、右手に錫杖、左手には宝珠を捧げていています。

 

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油掛通

油懸地蔵(西岸寺)前の東西の通りで、江戸時代に伏見港(京橋付近を中心)に近く、京・大阪へ行

き交う旅人で大いに賑わいました。明治時代、第一銀行が京都支店に続いてここ中油掛け町に伏見支

店を開設しました。明治28年には、下油掛より京都駅まで、わが国最初の電気鉄道(後の市電)が営

業を開始しました。

大正時代に明治天皇の桃山御陵築営に伴い、残念なことに大手筋にその賑わいが移っていきました。

 

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伏見マップ

以前にも使いました伏見マップですが、今回紹介する油懸地蔵尊、市電発祥の地、大手橋、濠川(ほ

りかわ)、京橋などに、赤マークをつけました。

 

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  • 芭蕉翁塚
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句碑説明

境内には「我(わが)衣(きぬ)にふしみの桃のしずくせよ 芭蕉」と自然石に刻まれた句碑があり

ます。これは1685年、当時の住職任口上人を訪ねた芭蕉が、上人の高徳を当時の伏見の名物であっ

た桃に事寄せて、その徳に浴したいと願って詠じたものとされています。その後、西山宗因、井原西

鶴、室井其角等の俳人も来訪しています。

 

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浄土宗西岸寺

油懸地蔵、芭蕉の句碑、任口上人の墓などもあることが示されています。

 

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我国に於ける 電気事業発祥の地

総本家駿河屋発祥の店・伏見駿河屋本店横にあります。

伏見線は,明治28(1895)年2月1日,日本で初めて開通した路面電車で,下京区東洞院通東塩小路

踏切(旧東海道線)南側を起点とし,この地点までの約6キロメートルを走りました。 昭和45

(1970) 年廃止。 石標は,日本最初の路面電車伏見線開業80周年を記念して昭和50(1975)年に

建てられました。

江戸時代の宇治川派流(濠川)沿いには問屋、宿屋、酒蔵が建てられ、米や薪炭、できた酒などを運

ぶ小舟が往来し、総称して伏見浜(港)と呼ばれる荷揚げ場でした。特に京橋付近は、大坂へ向かう

三十石船、山城へ向かう淀二十石船、宇治へ行く芝舟など、千数百隻にもおよぶ舟運で賑わった伏見

港の中心でした。角倉了以(すみのくら・りょうい)による高瀬川の開削で、洛中と伏見が高瀬舟で

結ばれると更に発展しました。

 

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おきな屋

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量り売り酒

大手筋商店街を出てその通りを更に西に進むと、京都・伏見の老舗蔵元 北川本家 が一人でも多くの

お客様に「日本酒 富翁」と 「つきたてのお米」の美味しさを知って頂くために作った直営小売店舗

が "おきな屋"があります。北川本家のお酒と、精米したてのお米を販売しており、特にタンクから

そのまま瓶詰めする「量り売り」は珍しく、人気のようです。

 

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おほてはし

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おきな屋を更に西に進むと、大手橋に出ます。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城にと

もなう建築資材を運ぶため、宇治川の流路改修工事により宇治川派流(濠川)がつくられました。ち

なみに、宇治川は琵琶湖から流れ出る唯一の河川で、古くは京都盆地へ流入する平等院付近から、京

都盆地の西端にあった桂川(北側)、木津川(南側)との合流点の上流側にかけて広大な遊水池・巨

椋池(おぐらいけ)がありました。

 

関連の記事が 京の街角 にもありますので、ご覧ください。

 

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