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2024年1月 4日 (木)

・京都伏見の歴史を尋ねて(2)御香宮境内、大手筋商店街から寺田屋に残る歴史の跡

 

京都南部の伏見は奈良と平安京の中間点に位置して平安時代には貴族の別荘地となり、藤原頼道によ

り宇治に平等院が建立されました。白河法皇は堀河天皇に譲位した後、鳥羽離宮を造営して白河上

皇として院政を続け、それは鳥羽上皇に引き継がれました。離宮は城南宮を取り囲むように造営さ

れ、政治文化の中心地となり、王朝文化が華を開きました。またこの地は鴨川、宇治川、淀川、桂川

に通じ、近くに巨椋池が湾入する水郷地でした。

江戸時代には伏見は幕府の直轄地であり、伏見港は幕府の公認の港町としてにぎわいました。京都市

のホームページによれば、1611年には御朱印貿易により財を築いた角倉了以が高瀬川運河を築き,

さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより,京都と大阪が水

路で結ばれました。

中継地として水上交通の要となると,大小の船が集中するようになり,伏見港はさらに発展しまし

た。京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ,宿場町

として多くの旅人で賑わいました。京橋付近には土佐藩邸、会津藩駐屯地、伏見奉行所などもありました。

昭和4年(1929)には伏見町は伏見市になるも、昭和6年には京都市と合併して、京都市最大の伏見

区が誕生しています。

それでは前回の御香宮境内から続いて、歴史的旧跡跡を見ていきましょう。

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ソテツ

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ソテツ説明

御香宮境内の本殿前横には、立派な蘇鉄(そてつ)がありました。このソテツは覆い無しで越冬して

開花結実し、その育成域を考えるうえで貴重な資料となっています。雄株と雌株の両方があり、実も

付くことでしょう。樹齢は不明ですが、1605年の本殿建築時からそれほど下らない時期に植えられ

た可能性もあり、昭和61年に京都市登録天然記念物に指定されました。

 

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伏見マップ

前回にも載せた伏見マップで、今回は大手筋商店街に入り、納屋町通りを南に下がり、寺田屋界隈ま

で行きます。

 

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石段付き灯篭

境内にあった石灯篭です。ちょっと高いためか、明かりをつける際に使う石段が付いた、珍しい石灯

篭でした。

 

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伏見の戦跡

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伏見の戦跡碑

境内を引き返してくると、明治維新の伏見の戦跡の説明板がありました。幕末の慶応三年(1867)

12月に王政復古が発せられると、京洛の内外は物情騒然としてきました。徳川慶喜の先方は伏見京橋

から伏見奉行所に達し、御香宮には官軍側が入り戦闘が開かれました。

しかし錦の御旗が翻ったことにより、幕府軍は大阪に敗走し、慶喜は船で江戸に逃げ帰ります。この

事により明治維新の大業が始まりました。境内には大砲4門が置かれたそうですが、幸い社殿は戦乱

による焼失を免れました。

 

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乃木記念碑

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日露戦役記念碑

東の駐車場の奥に、日露戦争の名将とされる乃木大将(希典)の詩碑があります。「凱旋有感」で始

まり、戦争には勝ったものの多くの兵を死なせてしまった苦悩と自責の念が滲み出ている詩だそうで

す。その右は「明治38年戦役(日露戦争)記念碑」があります。明治天皇が崩御されて大葬の礼が挙

行される時刻に、乃木将軍は夫婦共に自刃し殉死されたとされています。西南の役で明治天皇から賜

った軍旗を奪われた時、また日露戦争では旅順要塞の攻撃に手こずり多くの将兵を失った時にも、死

を願ったが天皇に止められていたことがあり、その責任を取ったためでしょうか。希典は64歳、妻の

静子は54歳でした。乃木将軍ご夫妻は、明治天皇陵の傍の乃木神社に神として祀られています。神社

の説明によれば、「死の直後から乃木大将が質素・倹約の日常生活の中で、陰日向なく勤勉実直に人

の道を歩むことを旨とし、身に一点の曇りでも生ずれば、直ちに責任を取るという生き方を貫かれた

ことに崇高さと感銘を覚え、畏敬の念を抱いて敬慕尊崇し」、神として崇め祀られるようになったと

あります。

 

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大手筋商店街(西詰め)

御香宮から出て道を西に取ると、すぐに大手筋商店があります。最初は意外と大きくて立派な商店街

に驚きましたが、かっての豊臣秀吉の城下町であり、その大手筋にあたる事を考えると納得されま

す。東西400m余で道路幅は7~8mの商店街で、平成9年(1997)には 頑張っている商店街とし

て「元気のある商店街100」に選ばれています。また伏見は銀座発祥の地でもあり、慶長六年

(1601)に徳川家康が伏見に日本初の銀座を開き、大黒常是(銀吹人・銀貨鋳造師)が通用銀の鋳

造を開始しています。当時周辺には両替商が軒を連ねていたとかで、大手筋商店街には銀座発祥の地

の石碑があります。 

 

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からくり時計・おやかまっさん

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からくり時計・伏見の酒

商店街へ入ってすぐの1番街に、からくり時計・おやかまっさんがあります。

13時から19時まで、毎正時(00分)になると伏見に酒蔵がある銘柄の酒樽が登場→くるりとひっく

り返ると伏見にゆかりのある人物が可愛い人形となって現れます。豊臣秀吉(伏見城築城)や千姫行

列の千姫様の姿も!「饅頭食い」「千利休」「牛若丸」「森の石松」「豊臣秀吉」「伏見城」「千

姫」「花笠行列」「坂本竜馬」「新撰組」「酒造り」が順次現れます。伏見人形の饅頭食いとは、父

母のどちらが好きかと問われた際、 童子が饅頭を二つに割ってどちらが美味しいか反問したという教

訓話による伏見稲荷の土産です。

伏見に茶菓づくりが盛んになったのは、京都の地下には巨大な水甕があり、水瓶の南端はちょうど

あたりに位置し、伏流水が伏見の酒を造っているためで、ことを先に紹介しています。

 

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竜馬通りマップ

商店街を進み、納屋町通りを南に下がります。納屋町通は竜馬通りと名前を変え濠川(宇治川源流)

に出て右へ曲がると、寺田屋があります。

 

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寺田屋

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寺田屋騒動跡

「寺田屋」は伏見の船宿です。坂本龍馬が定宿とし、薩摩藩士が同士討ちした「寺田屋事件」と龍馬

が襲撃された「寺田屋事件」という2つの「寺田屋事件」で知られ、多くの観光客が訪れる伏見の名

所です。「鳥羽伏見の戦い」で消失しましたが、その後再建されています。

 

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坂本龍馬像

寺田屋跡の奥にこの坂本竜馬像があります。

 

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寺田屋

寺田屋は江戸時代には有名な船宿でした。今も旅籠をやっており、宿泊も拝観もできるようになって

います。

 

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三十石船乗り場

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三十石舟

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三十石船

江戸時代には濠川(宇治川源流)は多くの船宿があり、淀川を上下する十石船、三十石船が行き交い

交通の要所でした。伏見と大阪の天満の間を運行していました。今も観光客が訪れ乗船しています。

 

関連の記事が 京の街角 にもありますので、ご覧ください。

 

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