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2024年1月

2024年1月31日 (水)

・ブロッコリーは重要な野菜として指定野菜に格上げされ、利用しやすくなりました

 

ブロッコリーが「特定野菜」から「指定野菜」の15番目に昇格しました。新規追加は50年ぶりの事

だそうですが、その研究と普及に携わった一人として、隔世の感があります。大学院を昭和44年に修

了して助手になった頃、大阪の高槻市にあった京大の高槻農場において10アール単位でカリフラワー

やブロコリーを栽培していて、その生態に興味を持ちました。当時はまだ花椰菜と緑花椰菜という名

前でして、今迄の野菜と食べる部位の形も異なり、栽培方法も良く分かっていませんでした。その食

べる部位である花らいの出来る条件を調べながら、収穫したカリフラワーやブロッコリーを近くの人

にあげようとしても、食べ方を知らないので要らないと断られたものでした。

そのような野菜であったブロッコリーのかっては9万トンもあった輸入量は、今では国内生産量のわ

ずか1.2%の約2千トンと減少しました。有難いことに今ではブロッコリーはほぼ全県で生産される

ようになり、国内需要は殆ど国内生産で賄われています。かっての赴任地で講演をして回った香川県

は、今では国内生産第4位になっています。奇しくも香川で講演をしていた頃、高校の同級生であっ

たY君が日本道路公団に入り瀬戸大橋の建設に関わっていた事を後で知りましたが、瀬戸大橋の開通

で本土と結ばれブロッコリーの出荷は一層促進されました。

この度のニュースも私とブロッコリーの関係を知っているかっての専攻生諸君や、高校・大学の同級

生、友人や息子たちからも、良かったねと紹介がありました。そこで今少し、ブロッコリーのあまり

知られていない情報をお知らせしようと思います。

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ブロッコリーが指定野菜に昇格

2024年1月22日に農林水産省から、ブロッコリーが特定野菜から50年ぶりに、指定野菜の15番目

に昇格したことが発表されました。ただ、2026年度からブロッコリーの昇格が適用されます。

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2024年1月18日 (木)

・あなたはシクラメンの花が反転するところを見ていますか

 

シクラメンはサクラソウ科シクラメン属の多年草で、塊茎を作ります。原産地は地中海沿岸で、トル

コからイスラエルにかけて原生種が自生しています。地中海沿岸では日本とは異なり、夏ではなくて

冬に雨が降ります。ところがシクラメンの花は冬に咲くため、上に向かって花が咲いていると雨がか

かり、雨に弱い花粉は濡れてしまい受精できません。そのためシクラメンの花は下向きに咲き、花弁

だけが反転して上に向き、上から見ても横から見ても咲いているように見えます。原種のシクラメン

の花はとても小さいミニで、花茎は塊茎の上からくるくるまいていたようです。そうして花の中の花

粉が雨に当たらないよう保護していまして、今のような咲き方に変わってきたようです。チューリッ

プなども上向きに咲いていますが、雨の日には花弁は閉じるようです。

しかし、シクラメンの花を見ているとたくさんの花が咲いていても、どの花も下向きに咲き花弁は反

転して上を向いて咲いています。花弁が下を向いた花や、花弁が横に開いた花を見ることは殆どあり

ません。それが不思議で、シクラメンの花は誰も見ていない夜中にコソッと速く、花弁が開き上に反

転するのだろうかと思ったりしました。ある時シクラメンの花を見ていると、つぼみが膨らんでいる

のがたまたま見えました。そこでこのつぼみを見ていると花弁が開いてくる過程が見えるかと思い、

慌ててカメラを取りに行き、写真記録を取る事にしました。

先には、しぼんだり咲き終わって落花した花は、早めにその花がらを取る方が長く咲くことを紹介

ました。今回は、つぼみが開き花弁が開きながら反転する様子を、観察した結果を紹介します。

 

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シクラメンの開花

これは前回にもお見せしたシクラメンの花の開花の様子です。花は下を向いたままで花弁が膨らみ、

全に開いた後花弁は反転して上を向き、かたく締まって上に伸びています。

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2024年1月13日 (土)

・シクラメンの花がらを早めに取り除けば、長く咲いてくれます

 

シクラメンはサクラソウ科シクラメン属の多年草で、塊茎を作ります。原産地は地中海沿岸で、トル

コからイスラエルに原生種が自生しています。和名には「豚の饅頭(ブタノマンジュウ)」と「篝火

草(カガリビバナ)」があります。ヨーロッパでは古くからこの塊茎を食用としていましたが、中南

米からジャガイモが導入されると食べなくなり、豚の餌にしていたため豚の饅頭と呼ばれたようで

す。花の形は篝火草のように綺麗な形をしています。

塊茎の中心部から葉と花芽が伸びてきますので、塊茎の上に水がたまるとこれらの芽は枯れてしまい

ます。そこで普通の鉢の場合は、鉢土の表面が乾いてきたら、葉を持ち上げ塊茎の頂部に水がかから

ないように、株元に水やりをします。底面吸水の鉢であれば、鉢の横にある小穴から、水を2,3日お

きに補給します。

大きい塊茎ほどたくさんの花を咲かせてくれます。長く伸びた花茎の先に花を1個つけ、下向きに咲

きます。これはヨーロッパでは冬に雨が降るので、雨水が花にたまらないように下向きに咲くようで

す。咲き終わると大きな実がつきタネができますので、鉢を抑えてもう一方の手で枯れた花をねじり

ながら、花茎ごと引き抜きます。タネを作らせないように早めに花がらを取れば、長く咲いてくれま

す。また周辺に花が出てくれば、葉をかき分けて中央部に集めてやれば綺麗になります。

今迄にもシクラメンの事は、2012年2014年2015年2017年にも紹介し、2015年には夏越

しの管理を紹介しています。気をつけて管理してやれば、シクラメンは毎年咲いてくれ、塊茎は大き

くなってきます。

 

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赤、ピンク、白のシクラメン

現在窓際で咲き続けているシクラメン3鉢で、白色の花、ピンク色の花と赤白色の混じる花(上段

)があります。

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2024年1月 6日 (土)

・京都伏見の歴史を尋ねて(3)油掛通の油懸地蔵、西岸寺の芭蕉句碑と市電発祥の地などの歴史の跡(了)

 

先に、京都伏見の歴史を尋ねて(1)として御香宮境内の残る歴史の跡を、その(2)として御香宮境

内、大手筋商店街から寺田屋に残る歴史の跡を紹介しました。今回はその(3)として、かっては大

手筋商店より以前に栄えていた油掛通界隈の歴史跡を紹介します。油掛け通りの地名の由来は、西岸

寺にある油懸地蔵の由来に因っています。平安時代初期に乙訓郡大山崎町にある離宮八幡宮で本邦初

の荏胡麻種子から荏胡麻油が搾られたことから、「本邦製油発祥の地」の碑があります。油の用途は

当初はお燈明用として始まり、その後には髪油、食用油と多岐にわたり拡大してきました。当初この

油は油座として、離宮八幡宮の許可を得た油商人だけが取り扱えました。一般庶民の明かり用の油は

鰯を原料とした魚油で、菜種油は蠟燭よりもはるかに高価でした。菜種油の値段は1升(1.8 ℓ)が、

今の値段で8000円くらいであり、お米の3倍の、超高級品でした。油に待つわる出来事が西岸寺で

石地蔵に起こった出来事から、この通り名が油掛通と命名されて有名になりました。

江戸時代には髪油を売り歩く者が、婦女を相手に話し込みながら商ったことから、「仕事を怠けて無

駄話をすること、あるいは仕事の途中で時間をつぶして怠けること」を、「油を売る」という意味に

も使われるようになりました。

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西岸寺

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2024年1月 4日 (木)

・京都伏見の歴史を尋ねて(2)御香宮境内、大手筋商店街から寺田屋に残る歴史の跡

 

京都南部の伏見は奈良と平安京の中間点に位置して平安時代には貴族の別荘地となり、藤原頼道によ

り宇治に平等院が建立されました。白河法皇は堀河天皇に譲位した後、鳥羽離宮を造営して白河上

皇として院政を続け、それは鳥羽上皇に引き継がれました。離宮は城南宮を取り囲むように造営さ

れ、政治文化の中心地となり、王朝文化が華を開きました。またこの地は鴨川、宇治川、淀川、桂川

に通じ、近くに巨椋池が湾入する水郷地でした。

江戸時代には伏見は幕府の直轄地であり、伏見港は幕府の公認の港町としてにぎわいました。京都市

のホームページによれば、1611年には御朱印貿易により財を築いた角倉了以が高瀬川運河を築き,

さらに南へと水路を掘りすすめ竹田から南浜へと延ばして淀川とつなぐことにより,京都と大阪が水

路で結ばれました。

中継地として水上交通の要となると,大小の船が集中するようになり,伏見港はさらに発展しまし

た。京橋付近が伏見港の中心で,参勤交代の西国大名の発着地となり本陣や脇本陣が置かれ,宿場町

として多くの旅人で賑わいました。京橋付近には土佐藩邸、会津藩駐屯地、伏見奉行所などもありました。

昭和4年(1929)には伏見町は伏見市になるも、昭和6年には京都市と合併して、京都市最大の伏見

区が誕生しています。

それでは前回の御香宮境内から続いて、歴史的旧跡跡を見ていきましょう。

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ソテツ

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