・長崎の平和記念公園から浦上天主堂を再び訪れることができました
長崎では先に大浦天主堂を訪れたことを書きましたが、せっかく長崎まで来ましたので市電で松山駅まで行き、平和記念公園に向かいました。
平和記念公園ではいつものことながら多くの観光客や高校生などがたくさん訪れていました。中には小学生の一団が先生に引率されて入ってきて、どうするのかと思ってみていました。すると平和記念像の両側に千羽鶴の保管場所があるようで、代表が持ってきた千羽鶴を吊るしていました。平和記念公園からは浦上天主堂は良く見え、一休みした後天主堂に向かいました。
浦上天主堂は、1945年(昭和20年)の長崎への原爆投下によって破壊されましたが、1959年(昭和34年)に再建されました。1962年(昭和37年)以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会です。
天主堂のすぐそばに長崎医大があります。長崎医科大学(現長崎大学医学部)永井助教授は原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭に重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様を「長崎の鐘」に書いています。被爆時に大学や長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や市民たちの様子を克明に描いています。永井博士はこの時妻を亡くし、また自身も救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留めました。「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のことです。
平和公園から見た浦上天主堂
長崎の町にキリシタンが伝えられた1567年ごろから、浦上にもキリシタンの布教が行われ、1584年、有馬晴信が沖田畷の戦の勝利の感謝のため、イエズス会の知行地として寄進したことによって、浦上は名実共にキリシタンの村になった歴史があります。
平和公園の平和の鐘
古関裕而作曲の「長崎の鐘」(昭和24年)の歌詞には、原爆を直接描写した部分は全くありません、当時の米軍の検閲をはばかったものと思われます。しかし言葉はなくとも、私たち皆はその意味を理解しています.
平和記念像
サトウハチローの詞は単に長崎だけではなく、戦災を受けた全ての受難者に対する鎮魂歌であり、打ちひしがれた人々のために再起を願った詞です。古関裕而が作曲し、藤山一郎が優秀な音楽技術で格調高く美しく歌い上げています。なお、ハチローの弟も広島の原爆の犠牲者となっています。私も広島市内で昭和20年に生まれ、その後香川に疎開したので被ばくはしていませんが、そのまま住んでいればとよく思います。
浦上天主堂
5年前に訪れた時とほとんど変わりはありませんでしたが、今日はお葬式が行われているようでした。
「長崎の鐘」のレコーディングには逸話が残っています。1949年4月のレコーディング当日、藤山は国内のスケジュールの疲労から体調を崩し40度近い高熱を出して苦しみ、吹込みは後日ということになりましたが、式場隆三郎博士、山下清画伯ら関係者が既にコロムビアのスタジオに来ているということを聞き、妻の運転する車でスタジオに向いました。再吹込みする条件で録音したが、藤山一郎の絶唱がスタッフ・関係者一同の感動を呼び、再吹き込みを経ることなくそのまま発売されたといいます。藤山はその後に何度も、NHKの紅白でこの歌を歌って多くの人の感動を呼んでいます。
売店ピエタ前のマリア像
売店前にはキリストを抱いたマリア像がありました。売店には年配のシスターがおられ、カードやポストカードを買いました。エルサレムに行った事があると話していると、シスターも教会からのグループでお参りに行ったとのことで、話が盛り上がりました。
信仰の礎像
その横には信仰の礎の記念像がありました。
大正9年(1920年)8月、浦上のキリシタン3,394名が集まり、全国に信徒の流配された信徒の50周年記念ミサを行い、「信仰の礎」の除幕式が行われました。
ルドピコ茨木像(全体)
天主堂の横に回ると、ハマユウの花に囲まれて26聖人の一人で、最年少のルドビコ茨木像がありました。
ルドビコ茨木は、棄教すれば命は助けると言われながら、つかの間の命と永遠の命は代えられないと断ったという26聖人殉教者です。ルドビコ茨木は26人中の最年少で、当時12歳。京都にあったフランシスコ会の修道院で働き、神父が捕まると自らも捕えるように願い出ました。
十字架を抱くルドピコ茨木像(上半身)
京から長崎までの長い道のりの途中で何人もの人が改宗を勧めましたが、彼の信仰心はゆるぎなく、1597年に西坂において処刑されました。1962年に、バチカンにより26名全員は聖人に列せられています。先程のシスターとも、高山右近はまだ聖人には列せられないが、前段階の「福者」に認定する手続きは了承されたねと話していました。
聖人石像
前庭には原爆の熱線で黒く焼けただれた聖人石像が何体かありました。どれも完全なものはなく、顔や手や鼻の一部などが欠けていました。
聖人石像
この石像も手の一部が吹っ飛んでないようです。
天主堂の鐘
左が被爆後堀出された鐘で、右は仮鐘楼に吊るされた状態の写真です。
「長崎の鐘」の歌詞
それではyou tubeから、藤山一郎による「長崎の鐘」をお聴きください。
●少し大きな写真と特性などは、右サイドの 日本の街角 に載せますの
でそちらもご覧下さい。
●関連の記事が 日本の街角 にもありますので、ご覧ください。
| 固定リンク
« ・植物園のハス池ではハスの横に半夏生が、また林にはヒロハコンロンカの白い葉がみられました | トップページ | ・植物園のハス池ではハスの横にサワギキョウが、また林にはホソバイヌビワの実がたくさんなっていました »
「・日本の街角 Hilights of Japan」カテゴリの記事
- ・山中温泉でのんびり温泉につかってカニを頂いた後、芭蕉の館で芭蕉の俳句を楽しみました(2023.03.31)
- ・岩手県が生んだ薄幸の詩人「啄木のふるさと」の絵葉書を学生時代に買っていましたが、それが書棚から出てきました(2020.09.17)
- ・豊田市美術館で開催中の「クリムト展 ウイーンと日本1900」を拝見してきました(2019.10.06)
- ・名古屋のヤマザキマザック美術館で開催中のロイヤルコペンハーゲンのアール・ヌーヴォーの可愛い動物たちを拝見してきました (2019.09.09)
- ・小学校の修学旅行以来久しぶりに二見が浦に参拝し、それから伊勢神宮の外宮と内宮を参拝してきました(2019.08.30)
コメント
プロフユキ先生
こんにちは。
行ったことがない長崎の素晴らしいお写真とご説明ありがとうございました。
「長崎の鐘」は勿論、聴いたことがございます。
確か?愛宕山にあるNHKの放送博物館でも聴けたように
思います。間違っていましたら、お許しを・・・。
投稿: マコママ | 2017年8月15日 (火) 14時34分
こんにちは マコママさん
長崎はローマみたいに、歴史の上にある町で、興味深いところが一杯です。
悲しい歴史もありますが、徳川時代に世界に開かれた町ですから、多くの日本人も
かってはこの地にたくさん来たことでしょう。
ハウステンボスにも行きましたので、また載せますので見て下さい。

投稿: プロフユキ | 2017年8月15日 (火) 22時36分
いいなァ~
私も長崎に行ってみたくなりました。
長崎には天草四郎の像とかもあるのでしょうか。ハウステンボスの記事も、楽しみにしていますね。
投稿: poem | 2017年8月18日 (金) 21時30分
こんにちは poemさん
色々頑張っておられますね、ブログの記事で拝見しています。
長崎は歴史が詰まって、しかもエキゾチックな世界事情が見られますから面白い街です。
ハウステンボスと長崎の両方を今回は欲張ったのですが、ハウステンボスには
中のホテルに泊まった方が良かったですね。
天草四郎の城跡や教会なども、以前ですが行きましたよ、良かったですね。
投稿: プロフユキ | 2017年8月18日 (金) 22時42分