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2017年8月 8日 (火)

・長崎の出島と鳴滝で医学、博物学その他の知見を伝えたシーボルトの足跡を記念館で見る

長崎では江戸時代の鎖国の間も出島ではオランダと中国との交易はされており、世界に開かれた町でした。ヨーロッパの学問の進展はオランダを通して伝えられ、そこにはシーボルトの貢献は大きく、医学、博物学その他の最新の情報をもたらしました。

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトPhilipp Franz Balthasar von Siebold, 17961866)は、ドイツの医師であり博物学者でもありました。ドイツ語での発音は「ズィーボルト」ですが、日本では「シーボルト」として知られています。シーボルトという姓の前にフォン (von) が添えられおり、これは貴族階級を意味します。

東洋学研究を志したシーボルトは、1822年にオランダのハーグへ赴き、オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となります。滞在中にオランダ領東インド総督に日本研究の希望を述べ認めて、1823年に27歳で来日し、長崎の出島のオランダ商館医となりました。出島外の鳴滝塾を開設して西洋医学(蘭学)教育を行い、日本各地から集まってきた多くの医者や学者、例えば高野長英などに講義しました。

 

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シーボルトと植物

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シーボルト旧宅跡案内図

 市電で蛍茶屋行きに乗り、新中川町で降りると、シーボルトが住んでいた屋敷跡と、隣接してすぐ横にシーボルト記念館があります。

 

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シーボルト旧宅跡

 これが旧宅跡です。中央奥にシーボルトの晩年の胸像があります。

 出島で医務官として勤務するほか、特別に長崎の町で診察することを許されます。また1825年には出島に植物園を作り、日本を退去するまでに1400種以上の植物を栽培しました。旧宅跡にはそれら栽培されたいくつかの植物が植えられています。

 

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シーボルト宅跡碑

 住居跡を示す石碑です。

 1826年にはオランダ商館長の江戸参府に随行し、道中を利用して日本の自然を研究します。日本に対する知識欲は旺盛で、地理や植生、気候や天文などを調査しています。江戸においても学者ら(最上徳内、高橋景保)と交友し、この年、それまでに収集した博物標本6箱をライデン博物館へ送っています。それらの多くはオランダのライデン大学内に建てられたシーボールト博物館(日本記念館)に展示されており、私もライデンを訪れて見学しています。

 

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シーボルト像

 晩年の胸像です。少し難しい顔をしていますが、一度は禁制品を持ち出そうとしたのが発覚して,国外追放になった折の表情でしょうか。1828年に帰国する際、先発した船が難破して積荷の多くが岸に流れ着き、その中に幕府禁制の日本地図などあったことから問題になり、国外追放処分となりました(シーボルト事件)。

 1830年オランダに帰国します。日本で収集した文学的・民族学的コレクション5000点以上、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点を持ち帰ります。1832年にライデンで家を借り、コレクションを展示した「日本博物館」を開設しました。

 

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シ-ボルト

 これは一度帰国をしてオランダをはじめ多くの国から日本文化を紹介し貢献に対して贈られた多くの勲章を胸に付けています。

 

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当時の長崎の湾と町

 当時の長崎湾の様子は今とほとんど変わっていません。天然の良港です。ただ変わったのは、左側に突き出た出島だけでしょうか。今の出島は長崎の町と地続きになり、島の様子はしていないため、初めて来た人は驚かれることでしょう。今の出島では当時の建物が再現されて、往時の様子を観察できるようになっています。

 

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シーボルト記念館

 旧宅跡に隣接して建てられている、シーボルト記念館です。オランダ風の飾り窓を持ったレンガ造りの建物です。

 

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シーボルト像

 シーブルト像というと先に示した老年期の胸像が良く見かけますが、博士が初めて来たときはこの像の様に、27歳の若者でした。ドイツ鉛のオランダ語を話しているため、日本人通訳に怪しまれましたが、山に住んでいた地方人なので訛りがあるのだと苦しい言い訳をしていたようです。オランダには山はないのですが、通訳には解らなかったようです。

 

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娘と息子

 来日まもなく楠本 滝と一緒になり娘・イネが生まれています。アジサイを新種記載した際にHydrangea otaksaと命名(のちにシノニム・異名と判明)しており、これは滝の名前をつけていると牧野富太郎が推測しています。娘のイネは日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られ、彼女のことは小説にも書かれています。

 シーボルトはオランダに帰国後ドイツ婦人と結婚をして息子が二人(アレクサンダーとハインリッヒ)生まれ、彼らは2度目のシーボルト来日時(63歳)に同伴し、父親の後を継ぎ日本でも活躍します。

 

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アジサイ

 シーボルトがオタクサと命名したアジサイです。おたきさんの言葉がなまったのでしょうか。

 

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おたくさ

 旧宅跡にはこのアジサイが今も栽培されています。

1854年に日本は開国し、1858年には日蘭修好通商条約が結ばれてシーボルトに対する追放令も解除されます。1859年(63歳)、オランダ貿易会社顧問として再来日し、後には対外交渉のための幕府顧問となります。18625月、多数の収集品とともに長崎から帰国しました。

 

 

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ハマボウ

 シーボルトはたくさん動植物の命名をしていますが、これもその一つでハマボウ(浜朴あるいは黄槿)です。学名は Hibiscus hamabo で、アオイ科の落葉低木です。日本の固有種で、シーボルトとツッカリーニによって新種として発表されました。

 

 

少し大きな写真と特性などは、右サイドの 日本の街角  に載せますの

でそちらもご覧下さい。

関連の記事が 日本の街角  にもありますので、ご覧ください。

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