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2015年2月13日 (金)

・京都・歴史探訪:三条小橋横には関白秀次とその遺児妻妾たちを供養する瑞泉寺があります

京の豪商角倉了以の邸宅跡、更に了以翁により掘削された高瀬川は歴史上の舞台ともなり、今も各種生き物の生息する環境を残していること紹介しました。三条小橋横にある瑞泉寺の縁起によれば、慶長16(1611)当時、鴨川にも高瀬舟水運があったようで、それを利用して了以翁方広寺大仏殿の再建の際、この水運を利用して資材運搬をしています。江戸時代初期に描かれた「洛中洛外図」にはその水運の様子が描かれており、またその図の「三条大橋」の南西の位置、つまり現在の瑞泉寺がある場所に、その後に寺の創建の由緒となる「せっしょう(摂政・殺生)塚」がはっきりと描かれています。


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瑞泉寺

了以翁瑞泉寺を創建したのは慶長16(1611)ですが、その16年前の文禄4年(1595715日に関白秀次秀吉の命により高野山で切腹し、続く82日に秀次子女妻妾の計39が、三条河原の中州であったこの地で処刑される「秀次事件」が起こりました。

 

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瑞泉寺地図

関白秀次15681595)は豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉養子となります。1591年に秀吉の嫡男・鶴松が死去するのに伴い関白に就任して、豊臣氏の後継者となりました。関白就任後聚楽第に居住して政務をとりましたが、実際には秀吉との二元政治であり、主に内政を担当しました。しかし、1593秀吉秀頼が生まれると秀吉から次第に疎まれ、やがて1595年に高野山に追放されます。

出家していましたが切腹を命じられ、15958月に死亡します。秀次の首は三条河原へ送られました。9月には三条河原において、秀次家族および女人も処刑されることになり、秀次の首がすえられたの前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら合わせて39が処刑されました。処刑後一か所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃(ひつ)が置かれました。この埋葬地1611年に角倉了以により再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていたといいます。聚楽第も間もなく破却されています。

 

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角倉了以建立の碑

 

了以翁の実弟・吉田宗恂は実は関白秀次家臣であり、秀次事件の連座を免れましたが、その後慶長15(1610)に亡くなっています。秀次事件16年後、高瀬川開削木屋町筋整備をしていた了以翁は洪水などで荒廃したその「」を見て、縁浅からぬ豊臣秀次一族を弔うための墓地一寺をこの地に建立したのでした。慶長16年に了以翁はこの瑞泉寺を創建しており、そこには弟宗恂の一周年の供養も含まれていたことでしょう。

 

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洛中洛外図に見られる塚

 

関西には秀吉フアンが多いのですが、晩年になってのこの「秀次事件」と朝鮮への「文禄・慶長の役」は、誰しもが首をかしげる失政の一つでしょう。聡明な北の政所の力も及ばなかったことが残念に思われます。

 

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秀次公の供養塔

秀次公供養塔の中央には、かって秀次公首級が収められていた石櫃が収められています。その周囲には処刑された遺児、妻妾39と、賜死した家臣10五輪の塔(五輪卒塔婆)が建っています。石櫃の上には当初あった「秀次悪逆」の4文字を削り取ったとされています。

 

 

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悲劇の一族39

ここには秀次公の遺41妻妾34お姿辞世の句が書かれています

上段右端の一の台菊亭殿御息女34)の辞世は

ながらへて ありつるほどの 浮世とぞ 思へばのこる 言の葉もなし

弁明の機会も与えられず、処刑されることへの無念さが示されています。

 

上段左端の 於辰の前19 容心院殿誓顔大姉 百丸・4歳の生母)の辞世

夫(つま)や子に 誘われて行く 瀬なれば なにをか後に 想いのこさん

吾が子を処刑され、次いで自分も処刑されるあきらめの境地か、哀しみが胸を打ちます。

 

気の毒で涙がそそられるのは、上から2段目右端の於伊万の前(駒姫、15)の辞世

出羽最上家の息女で美人の誉れ高く、上京間もなく秀次に会うこともなくこの難に遭遇。北の政所淀君の必死の助命嘆願秀吉の許可を取るが、急使三条河原到着が間に合わず処刑される。

瑞泉寺には、駒姫辞世の和歌懐紙が伝えられています。罪なき身も世の曇りにさへられて、ともに冥土に趣かば、五常の罪も滅びなんと思ひて 

つみをきる みだのつるぎに かかる身の なにかいつつの さわりあるべき

 

 

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秀次公の遺児・妻妾たち

こちらの遺児、妻妾も、先程の絵と同じ場所に人形姿で置かれています。最下段は殉死した家来。

 

 

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秀次公の遺児・妻妾たち2

上段右から二人目が9歳の女児、次いで3人目が6歳男児の幼気(いたいけ)ない子供がまず処刑されたとか。

 

 

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秀次公の遺児・妻妾たち3

上段左から、に抱かれた4歳の男児、次いで1歳の男児3歳の男児

幼気ない子供を僧になることも許さず、処刑したのは全く狂気の沙汰としか思えません。

 

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供養塚

この石塔の広大な慈悲心と偉大な救済力を秘めた呪文(真言)の一つが奉祀されています。秀次公御一族供養のために建てられたものとされています。

 

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ロウバイ

たまたま訪れた際にはお庭に住職がおられ、いろいろお話を聞く機会がありましたが、お祀りされている人を慰めるため、いつも季節の花を絶やさないように気を付けていますとのことでした。

 

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ロウバイの花

ロウバイの花が、今を盛りに咲いていました。

 

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ツバキ

これは薄ピンク色のツバキが、もう咲きかけていました。

 

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ツバキの花

綺麗なピンクツバキの花でした。

 

住職の玄渓さんは、瑞泉寺縁起の最後に次のように書かれています。この瑞泉寺の境内は今ではビルの谷間になりました。「この地が、豊臣秀次公御一族の終焉の地となった加茂処刑場でした!」といっても容易に信じては頂けません。

「思フニソレ、此ノ地、民屋(民家)トナスベカラズ」。了以翁と共に瑞泉寺の創建に力を尽くされた開山上人・立空桂叔和尚の此の言葉を、改めて噛みしめなおす昨今です。

 

 

 少し大きな写真特性などは、右サイドの 京の街角 載せますのでそちらもご覧下さい


関連記事が 歴 史 にもありますので、ご覧ください。 

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