・京都・香川歴史探訪:歴代朝廷を恐れさせた崇徳天皇の怨霊を、竹田恒泰著「怨霊になった天皇」に見る
香川県に住んでいた頃、高松と坂出の間に五色台と呼ばれる400m級の連山があり、よく子供を連れてドライブに行っていました。五色台の西側に西国88ヶ所の一つ白峯寺に並んで白峯御陵があり、崇徳天皇が祀られていることは知っていました。京都に転居してみると市内にも白峯神宮があり、興味がわき調べてみると保元の乱で負けた崇徳院が讃岐に流され、その怨念を和らげるため明治政府がお祀りしたものと分かりました。
さらに崇徳院のことが、竹田恒泰著「怨霊になった天皇」に詳しく載っていますので、現地での写真に併せて崇徳院の怨念の由来を紹介します。
表紙
昭和39年(1964)9月21日に崇徳天皇800年式年祭に昭和天皇は勅使を使わされました。崇徳天皇は「日本史上最も恐れられた怨霊」と観念され、また百年ごとに行われる式年祭前後の数年間には決まって国家的な動乱が起こると言い伝えられてきたが、やはり昭和39年のこの日も火事が起こったり雷鳴が鳴るなどの異常な出来事が相次ぎました。
700式年祭の1864(文久4年)は幕末の国家動乱の真っただ中にあり、4年後に戊辰戦争が起こり、本格的な動乱に突入します。600式年祭の1764年の3年後の1767年には尊王論者が弾圧された明和事件が起こり、幕府と朝廷が極度に対立しました。500式年祭の1664年の3年前の1661年には禁裏御所が炎上し、400式年祭の1564年の翌年 1565に室町幕府滅亡し、1568年に織田信長が上洛します。300式年祭の1464年の3年後1467年には応仁の乱で京都は焦土と化します。200式年祭の1364年は南北朝の動乱期で、100式年祭の1264年の4年後1268年には中国の元が国交を迫り、後の元の襲来が起こります。
崇徳天皇前後の系図
孝明天皇は国家動乱を避けるため、崇徳天皇の神霊を京都に奉還してこれを慰め奉るために、京都に白峯社を創建することを1864年に決めます、2年後造営間もなく崩御されます。明治天皇は父帝の遺志を継ぎ、造営を再開し慶応4年(1868)についに讃岐国の白峯御陵から京都へ700年ぶりに崇徳天皇の神霊は迎えられました。その際勅使に持たせた宣命には、「京都の新営にお移り頂き、天皇と朝廷を末永く守護していただき、また奥羽の賊軍を速やかに鎮圧し、天下が鎮まるようにお助けいただきたい」とありました。時は戊辰戦争の最中であり、朝廷は崇徳天皇の怨霊が奥羽列藩同盟に味方することを恐れていたようです。これは、平氏政権から徳川政権まで、武家政権が何世紀も続いているのは崇徳天皇の怨霊によるものと、古来信じられてきたからです。
白峯神宮
白峯社は明治6年に官幣中社とされ、また廃位させられた淳仁天皇も合わせて祀られ、昭和15年には昭和天皇より神宮号宣下をうけ白峯神宮と称し、官幣大社に昇格されました。京都には白峯神宮の他にも崇徳天皇の鎮魂施設があり、祇園の中心部(甲部歌舞練場東側)に崇徳天皇御廟があります。天皇の崩御後、寵愛厚かった阿波内侍が御遺髪を都に持ち帰り、この場所に塚を築き御霊を慰めたものと伝えられています。天皇亡き後京都に数々の異変が起きたため、朝廷は粟田宮、御影堂を建て鎮魂をしましたが、幾度も水害や火災に遭遇し、所在地は判然としなくなっていました。現在ではこの御廟だけが残り、御廟祭がおこなわれています。
崇徳天皇御廟
崇徳天皇はなぜ祟る怨霊になったのでしょうか。崇徳天皇は第74代鳥羽天皇の皇子(顕仁親王)として生まれましたが、皇后璋子(たまこ)は第72代白河天皇の寵愛が厚かったとされます。鳥羽天皇は皇子を叔父子(我が息子ながら実は祖父の子供=自分の叔父)として嫌っていたとされます。
鳥羽天皇は白河法皇から顕仁親王への譲位を迫られ、顕仁親王は5歳で第75代崇徳天皇となります。その後まもなく白河法皇は崩御して鳥羽上皇は院政をふるい、崇徳天皇20歳の時天皇の異母弟へ譲位を強いて近衛天皇(第76代)の即位となります。崇徳院は自身の院政を期待していましたが、それはかなわなくなりました。病弱であった近衛天皇は17歳で崩御するものの、またも崇徳院の第一皇子が帝位につくことはなく、崇徳院の同母弟の養子守仁親王の即位を前提に、同母弟が後白河天皇(第77代)となります。
白峯寺全図
このように、崇徳天皇の在位期間は白河院と鳥羽院による院政が敷かれ、天皇としての実権をふるうことができませんで、歌道に専念するしかありませんでした。しかも上皇となるも父院としての院政も閉ざされ、また崇徳院の系統が天皇になれなくなることがなくなったことを意味していた。しかも、武も文にも能がないと酷評していた弟の後白河天皇が帝位についたことで、不満を募らせ、政情は混乱していきます。天皇と院との対立は、摂関家と武家の源氏と平家にも波及していきます。
第81番札所白峯寺
鳥羽院が病気になるも、崇徳院の見舞いを後白河天皇は拒絶します。鳥羽院の崩御後、初七日を崇徳院の臨幸もなく実施し、対立は一層深まります。そしてついに崇徳院は藤原忠実・頼長、源為義・為朝、平忠正を味方に保元の乱を起こしましたが、後白河法皇には藤原忠通、源義朝、平清盛がはせ参じ軍事的にも優勢でした。その結果上皇方は敗れ、崇徳院は讃岐国に配流となりました。
頓証寺
讃岐国で院は9年過ごされましたが、配流先から京都に戻ることはかなわないと心を落ちつかせ、写経を始められ五部大乗経を自筆されました。自筆の五部大乗経を実弟の仁和寺覚性法親王に送られましたが、天皇はその受け取りを拒絶されたことが、保元物語の諸本の一部に残っています。受け取りを拒絶されたことで以後崇徳院は怒り恨んで、「後生菩提のためとて書き奉る五部大乗経の置き所さえ許されねば、今生の怨みのみにあらず、後生までの敵にこそ」といって、舌先を噛み切ってその血で経文の軸に、もろもろの天部への願文を書きつづって海底に投げ入れ、「日本国の大摩縁となり、天下を乱り国家を悩まさん」と誓って、以後髪も剃らず爪も切らず、生きながら天狗の姿となって配流の地で数え46歳をもって没しました。この間の事情は諸説あり信じる資料が少なくて明らかでありません。仁和寺にはこの大乗経は無事収められていますが、説話の中では怨念話がどんどん膨らみ、崇徳院の恐怖のイメージが信じられていきます。
西行法師
崇徳院は崩御後その御遺骨は、白峰寺の近くに埋葬されましたが御陵は石を積んだだけの粗末なものでした。地元讃岐では朝廷の意志とは別に、崩御後院の近従者が白峯寺の境内に頓証寺を建立し、院の菩提を祀っていました。崩御数年後、供養のために訪れた西行法師は埋葬されたところもわからない状況だったといいます。
瀬を早み……の歌碑
西行法師は元来天皇を守る北面の武士であり、和歌にも通じており崇徳院とは交流があり、出家したのち崇徳院の霊を慰めるため訪れました。頓証寺の中に西行が訪れると院が現れ、「松山や 浪に流れて こし船の やがて空しく なりにけるかな」と詠われ、西行が涙を流して返歌に「よしや君 昔の玉の 床とても かからん後は 何にかはせん」をすると御廟が振動したとの説明がありました。
白峯御陵説明書
配流後も崩御後も、後白河院は崇徳院を完全に罪人として扱い、服喪もしませんでした。しかし崩御の翌年には後白河院の皇子である第78代二条天皇が、また次代の六条天皇の摂政が亡くなっています。
玉章木(たまずさの木)
(白峰には玉章木の伝説が残っています。都を慕われた崇徳院はホトトギスの鳴き声にも都を偲ばれ、「鳴けば聞く 聞けば都の 恋しきに この里過ぎよ 山ホトトギス」と詠じられました。ホトトギスはその意味を察して、その後はこの大木の葉を巻いてくちばしを差し入れ、声を偲んで泣いたといいます。その巻いた葉の形が玉章(手紙)に似ているため、ホトトギスの落し文と呼ばれ、その葉を懐中にすれば良い文があるとされています。この木は800年で枯れ、この木は2代目の木です。)
白峯御陵
崩御12年後から後白河院の近親者が相次いで命を落としたことから、崇徳院の怨霊が意識されるようになりました。更に翌年には京都で太郎焼亡と呼ばれる大火が起こり、京都市内の1/3が焼け落ち、大極殿も焼失してしまい、翌年にも次郎焼亡と呼ばれる大火が起こり、社会不安は一層高まりました。二つの大火と崇徳院の怨霊とを結び付けて考えたのはほかならぬ後白河院でした。
白峯御陵石段
これ以降崇徳院の鎮魂が進められるようになり、便宜的に讃岐が追号と充てられていましたが、讃岐院に崇徳という諡号(しごう)が初めて贈られました。諡号というのはその天皇を称えた号であり、歴代の天皇でも諡号の贈られる例は限られています。
白峯御陵
このような後白河院の対応の遅れが後の世まで尾をひき、怨霊が定着していったようです。私が訪れた日も、地元の人が御陵の管理をされていました。
十三重石塔
白峰御陵の入り口近くには、保元の乱で敵方であった源義朝の子の頼朝により、崇徳院の菩提を弔うために建てた十三重石塔が立っています。
●少し大きな写真と特性などは、右サイドの 日本の街角 に載せますのでそちらもご覧下さい。
●関連の記事が 歴 史 にもありますので、ご覧ください。
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