・太平洋のパラオ共和国と日本の戦中戦後に渡る交流小話
日本は第二次大戦(太平洋戦争)の以前から、台湾、南樺太と朝鮮は日本の領土であり、関東州(旅順・大連地域の日本租借地)と南洋群島は領土ではありませんでした。いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり、外地と総称されていました。白人による植民地支配はおおむね現地の鉱物・産業資源などの搾取に加えて労働力を使い、一方で本国の産業生産物を買わせる形態で、本国人と同じように扱うものではなかったようです。しかし日本の場合には、これら外地の人たちと内地の人たちを同じシステムで扱っていました。
これらいわゆる植民地経営のことを私達は知らずに来ていますが、白人による植民地支配とは異なったようです。例えば一本の鉛筆でも買わせるのではなく、ない人には与えるやりかただったようで、日本のやり方は現地の人に嫌われることなくいまだに友好的印象を持たれている場合が多いようです。
ここには、最近の反日デモ関連のブログを見ているうちに見つけた記事で、日本のものづくりへの信頼性と戦争中に起こった感動的な小話を紹介します。
太平洋諸島の一つパラオ共和国は、フィリピンの東南、ニューギニア島の北にあります。第一次世界大戦中日本は連合国側にあリ、ドイツの植民地であったパラオを攻めてドイツ軍を降伏させ、これを占領しました。戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になりました。ドイツ占領下では他の植民地と同様に、道路や水道などのインフラストラクチャーの整備や現地人への教育はほとんど行われていませんでした。
日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備も重点的に行われ、また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになりました。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、首都コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となったため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出しました。
毎日新聞のコラムに次のようなパラオの話が載ったことがあリ、紹介します。
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遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ……」
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。
やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに……みせかけだったのか。
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した。
船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。
しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。
その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと……。
毎日ノンフィクション『サクラサクラ ベリリュー島洞窟戦』船坂弘著(1967年)
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「パラオの統治者である日本軍」としては、パラオ諸島の小さな島・ペリリュー島の
民間人を“圧倒的不利な戦局”に巻き込んではならないと配慮したのでした。そして船舶も乏しい中、空襲を避けて夜間に船を出し、住民の全員をパラオ本島に避難させたのです。そして日本軍はパラオを死守するために文字通り死を覚悟して戦ったのでした。
最期に『サクラ・サクラ』という電文だけを残して。
その戦いの甲斐あって最大激戦地・ペリリュー島での民間人死傷者はゼロでした。戦争後に島に戻った島民たちは、放置されていた夥しい数の日本兵の 亡骸を泣きながら埋葬したそうです。後にペリリュー島のオキヤマ・トヨミと ショージ・シゲオが“ペリリュー島の玉砕戦”を、日本の国花・桜に託して 作った『ペ島の桜を讃える歌』は、今でも彼らに愛唱されているという。
多くの人と同様に、フィリピン沖の戦争で私の叔父も一人戦死しています。この小話は涙なしには読むことができません。
後にペリリュー神社(米軍により占領後破壊された)は青年神職南洋群島慰霊巡拝団やイサオ・シゲオ尊長ら島民の手により「すべて日本から運搬した材料を使って」再建された。この神社の前には戦中は敵だったアメリカ太平洋艦隊司令官 チェスター・W・ミニッツの言葉でこんなことが書かれている。
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「この島を訪れる、もろもろの国の旅人たちよ。
あなたが日本の国を通過することあらば伝えてほしい。
此の島を死んで守った日本軍守備隊の勇気と祖国を憶う、その心根を。」
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パラオは1994年にアメリカから独立しましたが、日本統治下のこれらの出来事を忘れてはいませんでした。パラオの国旗については日本の国旗である日章旗をモデルにした月章旗を作り、自国の国旗にしました。日本の日の丸が太陽を模しているのに対し、パラオはほぼ同じデザインの色違い(青地に黄丸)で太平洋に浮かぶ月をかたどりました。
また、2005年7月6日に来日したパラオのタミイ・レメンゲサウ大統領は、単に日本の常任理事国入りを支持するだけでなく、国連改革案の共同提案国にまでなってくれた上に、「最後まで日本を支持したい」と表明しました。さらに靖国参拝にも
「すべての人のために祈るのは正しいこと」と支持を表明した。
つい先日、2005年7月10日には、同じく日本が統治したソロモン諸島の
ケマケザ首相は以下のように述べて靖国神社を参拝した。「日本とソロモン諸島の共通の文化は先祖に感謝すること。英霊が祭られている場所を拝見したい」
(2005年7月12日 東京朝刊)
これは1977年に韓国の建設会社SOCIOにより建設されたコンクリート製のKBブリッジ橋です。SOCIOが鹿島建設の半額の入札価格を提示し落札しましたが、建設直後から橋の中央部がへこみ始め、20年もしないうちに約1.2mも陥没しました。1996年に轟音と共に突如中央部から真っ二つに折れて崩落し、2名が死亡、4名以上が負傷しました。
パラオ政府は韓国の業者に崩落の賠償を請求したが、韓国側は賠償を拒否。しかも
その会社は既に解散していたため手掛かりもなく、一銭も支払われなかったという。
これは2002年1月、日本の政府開発援助 (ODA) によって再建されたエクストラドーズド橋です。この橋は重要な電線、電話線、水道などのライフラインであるため、一日も早い建設が望まれていました。正式名称は「日本・パラオ友好の橋と」いう 。設計上の耐用年数は50年です。パラオ政府が財政的な理由から自国の資金による建設を断念したため、1997年に日本の無償援助(30億円)による橋の再建を決定し鹿島建設によって再建されました。この新しい橋のたもとの碑文には、 日本とパラオ親善の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)と刻まれ、日本とパラオ両国の国旗も描かれているという。
(参考ブログ:韓国はなぜ反日か? )
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●関連の記事が 随 想 にもありますので、ご覧ください。
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コメント
いいですね。パラオ。一度は訪問してみたいと思いつつはや15年以上が経ちました。戦争を経験した方達もだんだんと少なくなってきていることでしょうね。ぜひ話などを聞いてみたいと思っているのですが。
投稿: nobwoo | 2012年9月19日 (水) 21時54分
今晩は nobwooさん
ついつい忘れがちになりますが、私達は先人の苦労の上に現在があるのですね。
父親がかっての一等国が三等国になり、1ドル1円が360円に下がって
しまったといっていたのを覚えています。
聞けるうちに戦争での出来事を聞いておかないと、それらが風化して
しまうでしょうね。
投稿: プロフユキ | 2012年9月19日 (水) 23時00分
こんばんは
先だっての戦争中には日本もひどいことをしてきたと思いますが、
でも、人情ある本当の意味での友好的なかかわりや援助をしてきた例が、
戦後だけでなく戦前にもあったのですね。
パラオが親日だと聞いたことはあったものの、理由はプロフユキさんの記事で
初めて知ることができました。
情けは人のためならず という言葉の真実を感じるお話でした。
投稿: ポージィ | 2012年9月20日 (木) 17時26分
今晩は ポージィさん
今度の大戦もやむにやまれずの戦いでしたが、やはり光と影がありますね。デモ
その陰の面ばかりが宣伝されて、ヒカリの面がどこにも書かれてないので、
自信喪失につながっていますね。
光の面としては白人を追い出しアジア人に自信をつけ、アジア諸国の植民地
からの独立機運を守り立てていますからね。
日本人のもつ勤勉さと誠実さは今も昔も変わらないので、若い世代も自信を
持ってほしいです。
パラオは独立に当たって、日本に併合して欲しいという申し出もあったようですよ。
投稿: プロフユキ | 2012年9月20日 (木) 20時57分
民間人を戦局に巻き込んではならないと考えた
パラオの日本軍の話、胸がいっぱいになりました。
言葉にすると言いならわされた感がありますが、
「先人の苦労の上に現在の私達がある」ということは、
私自身、折に触れ、痛感するところです。
またひとつ、貴重なお話を知ることができました。
ありがとうございました。
投稿: hanano | 2012年9月23日 (日) 10時38分
今晩は hananoさん
日本にはまだまだ人情も厚くて潔い、そんな心を持った人の話が
一杯あることでしょうね。
今の日教組支配の学校では望むべくもないですが、特に若い人
には知っていて欲しい話です。
どうも戦争に負けて国を守ることより、経済行動にだけまい進してきた
つけが来ているようで残念ですね。
あの戦争を批判することは簡単ですが、戦争しなければ日本は、また
アジア諸国は現在のように平和だったのかと思うと、性急な判断は
できないですね。
何はともあれ、hananoさんの書かれているように、先人のおかげで
今の私達があるということを、特に海外に出れば痛感しますね。
投稿: プロフユキ | 2012年9月23日 (日) 20時47分
お早うございます 日本のテレビがなぜ タイの店で並んでいないのか これはタイの店のモラルの 問題で 間違えた商人が 日本のテレビは 売れない 何故か 日本のテレビは 壊れない 10年15年 観ることが 出来る 韓国 中国製は 5年で壊れ 買い替え需要が出て 売れる インドでは少しお金のある人は 高い日本製品を買う 20%高い でも15年使えたら 出費が少なくて済む これがお金の溜まる人と 溜まらない人の 差になる 今タイ国の消費者も解るように なるでしょう 一度に沢山の物を 買い求めようと するとタイ国の 収入レベルでは安い物がいい となるのかも これでは日本製品はかないません 其処にこの円高ですのでね 日本はメーカー指導で小売店が 販売していましたが タイ国では中国系の オーナーが多いのでしょうか 店の売り上げが先行するようです 日本の店は同じにはならないとは思いますがね
投稿: bunchan 水戸市東野町 | 2012年10月21日 (日) 07時53分
今日は bunchanさん
タイには何度も行っていましたが、メーカーが現地での販売店を通して
売っているとは思っていましたが、こんな事情があるとは知りません
でした。
タイの普通の人はそれほど先のことを考えないので、手じかに買える
ものを買っているのですね。
経済的に余裕のある人は分かって日本製品を買っていると思いますが、
メーカーも系列の販売店を設けるなど対応をして欲しいですね。
投稿: プロフユキ | 2012年10月21日 (日) 12時32分